③自殺と入院 そして…希望

2021年03月12日 10:18

死と再生のサイクル


1つの終わりと新たな始まり…

死にたい、
消えたい、

と考えるとき、これは紛れもなく
自分の「本当の気持ち」「理性」
からくる判断なのだろうか…?

でも苦しみの真っ只中にいる時は“間違いなく

『確信を持って』そうだと思っていた。

今このブログを書いている自分は当たり前だが生きている。
「死ななくてよかった」、、あの時の自分は一体何だったのか………

死を最も身近に感じた時


回想録②のその後から書いてみる。

親との確執に加え、度重なる周辺の大工事によって、最後の砦であった自宅の環境までがむちゃくちゃになってしまった。

心の休まる時が無くなってきた事が、
生きる気力を無くしていた僕に、さらなる追い打ちとなり、完全なノイローゼ状態となっていった。

最終的にはもう死ぬことしか考えられなくなっていた…

この辺りは《回想録②“つながれない…ひきこもるということ”に書いてます》

そこまでに至る経緯はここに書き出すことも非常にキツイ作業だなと今改めて思っている【後に親との何十年に渡る葛藤が大きな原因であると分かってきました。
この葛藤についても書こうと思ってましたが、まだ書けないようです…】

とにかく死ぬことを決意した。。
全てに絶望して…

それまで「生」の世界から死にたいと考えたことは何度もあったが、今度の場合、自分はもう「死」の世界にいて、そこから死を考えていた。

まるでもうすでに自分の一部は死の世界に行っていて、その死の世界にいる一部の自分から引っ張られているような…
【同じ“死にたい”でも全く感覚の違うものでした。伝わりにくいと思いますが】

死ぬことで、
「この世の苦しみから逃れられる」
「早く楽になろう」
と思っていた。

後はどうやって死ぬかを妄想するばかりだったが、この時僕の唯一の救いだったのは、突発的な衝動で、高所から身投げするなどの方法を選ばなかった事だ。

【これも自分の運命だったのでしょうか…?】

しかし結果的には自殺行為を繰り返してしまう‥

そして、、ある日突然、僕の部屋に4〜5人の男が入ってき来た。


自然と自分のテリトリーに入ってきたこの侵入者達に警戒モードになった。

拒絶する僕に対して、男の一人が病院の職員であることと「もうあなたはおかしい状態だから病院へ連れて行く」といった旨を告げられた。
(家族が病院か役所のどちらに相談したのかは定かではない)


数分の押し問答の末、その者たちに体を抑えられ注射を打たれることになる。
後で分かったが、それは鎮静剤だった。

そのまま車で護送されるように病院へ、
家から連れ出される間際、妹がこちらを見ているのを発見した僕は
「一生恨んだるからなーー」と睨みつけながら叫んでいた。

妹が通報、手配したのが分かったからだ。
妹は泣いていた…


精神病院へ

車の中では、(注射のせいか)全て終わったような諦めの境地のような気持ちになり、ボーッとするだけだった。

あと不思議なことに、ほんの少しホッとしてもいた。
【苦しい現実からどんな形でも引きずり出してくれた事からの安堵かもしれません。やはり僕はこの時、まだ生きたいと言う気持ちがほんの少し残っていたのだろうか?】


放心状態のまま車に揺られるうちに、いつの間にか病院に到着。
職員に誘導されながら病棟の事務室に連れて行かれ、入院に関する説明を受けるが、あまり内容は覚えていない。その後病室へ、、

環境が大きく変わって、ある意味観念したのか

「もうどうにでもなれ」

と投げやりな気持になって真っ白いベッドの上に腰掛けた。。



入院したら当たり前だが薬を飲まされることになる。
入院は2度目だ。
大体の勝手はわかっている。

あれだけ拒絶していた精神薬もあっさり飲んだ。
【なぜか…今でもよくわかりません】

そして数年ぶりに妹以外の人間とマトモに口をきいた。

初めのうちは病院の看護師や医師などのスタッフだった。
そのうち同室の人、そして同じ病棟の仲間達とも、ちょっとした挨拶から始まり、徐々に話すようになっていった。

“もう生きることに完全に絶望し”、死のうとした自分だったが、まだこうして人と話そうという気持ちが出てきたのは本当に不思議だ…。

相変わらず未来には絶望していたし、主治医の診察は苦痛で仕方なかった。(嫌いだった)
そして精神も不安定極まりなかった。

けれどももう“死のう”とは少しずつ考えなくなっていった…

入院生活3ヶ月

そして入院一ヶ月半が来ようとしていた頃、僕の気持ちが少し落ち着いてきたのもあって、両親と妹と面会する運びとなった。

親とはこの数年マトモに口を利いていない、、向こうも僕に近づこうとはしなかった、、

「俺がこんなになったのはお前たちのせいだ」「俺を支配しやがって」

と思っていたし、自分を避けていた事も火に油を注ぎ、特に母親を殺してやりたいほど憎んでいた。

また唯一心の拠り所だった妹には
「俺に黙って勝手に病院に通報しやがって」
と恨みの気持ちを持っていた。


そんな気持ちが入院生活でワンクッション置かれて、少し落ち着いて来たということだろう、
医師の判断で面会日が設定された。


そして、ついにその日がやってくる。

妹には「あの状況では通報したのも仕方のないこと」とだいぶ自分の中では許せるようになっていたので、当日、以外とすんなり会うことができた。

しかし母親は相変わらず脳天気な態度だった。

「やっぱりこの人はダメだ…」
「息子が死ぬか生きるかで病院に搬送されたのに、よくこんなあっけらかんとしてられるな」

と半分呆れるやら、怒りが湧いてくるはで、、

一回目の面談は余りイイものとは言えず、終了となった。

その後も数回の面談が行われたが、その中で僕は母親に対して(形だけでも)謝ってほしい旨を伝え、とにかく謝らせた。
母のあっけらかんとした態度に、当時の僕はそうしでもしない限り収まらなかったのだ。

真剣味のない謝罪だったが、とりあえずの収まりはついたように思う。
【いい年をした男が…と思われるかも知れませんが、幼少期からの母との何十年にも渡る“心のわだかまり”(インナーチャイルド?)を解く必要なステップだったと思っています。】



今思えば、何年もひきこもっていて、人との関わりがほとんど無くなっていた自分にとって「入院」という環境は、社会性を取り戻していく1つのステップになっていった。

そんな僕の周りには、、(患者仲間)

見た目ヤクザにしか見えないけど、とっても親切なKさん、
色々と話を聞いてくれたCさん、
姉ちゃんのようなAさん、
体操を教えてくれた老紳士Gさん、
よく一緒に散歩した大阪のおばちゃんNさん、
初めて会話した、とっても静かなIさん、
同室のとっても優しいUくん、
退院時、最後に見送ってくれたFさん…

色々な人達が僕の前を通り過ぎていった。

ただそういったイイ思い出ばかりではなく、やはり以前の入院と同様、患者の層も時と共に入れ替わっていく。

そうするうちに、どんどん居心地の悪い場所になっていった。

最終的にはどうしても入院生活が耐えられなくなり、3ヶ月が経とうとする頃に

「退院したい!退院させてくれ!」

と必死に懇願するようになる。

しかし主治医と家族が
「このまま家に帰っても…」と中々OKがでなかった。
退院についての話は難航したが、何度目かの話合いでなんとか許可が下りる。


僕はお化け屋敷から脱出するように、病院から逃げるようにして退院した…
【時たま良き入院仲間の事を思い出します。またどこかで会える奇跡を楽しみにしています】

退院後…

家に帰ってきたものの、未来に全く希望はなかった。
かといって入院前のように「死ぬという目標」も失った僕は、

“死にはしないが、生きようとも思えない”

まさに宙ぶらりんの状態で生きなければならなかった。

毎日を抑うつ感全開でただ生きる…


食欲も無くただ薬を飲むためだけに摂る食事、身の回りの事もほとんどできず、一日中部屋で横になっていた。

簡単なことでは食器洗いはできない、歯磨きも大変、風呂に入る事など海外旅行に出かけるくらいの大事だった。

また、どうしても各種手続きで、銀行や役所に行かなければならない時も無茶苦茶負荷のかかることだった。

その中でも外来通院は最も疲れる事であり、電車に乗れない僕は、家族に車で(入院していた)病院に乗せてもらっていた。

待ち時間が長い上、主治医との長い診察(この医者はなぜか診察時間が長い)は本当に苦痛だった。
院内でも薬を多く出す医者として有名だったので、薬漬けにされる恐怖にいつも晒されていたのだ。
【この当時の自分は気も弱くなっており1のストレスが10にも感じていたと思います。物事をどんどんネガティブに捉えていた‥全然良くなってませんよね】


通院に取られる時間と、主治医へのストレスのダブルパンチで、僕も送迎する家族も辟易していた。
そんな中「病院を変えよう」という考えが湧いてきたのは自然なことだったと思う…


しかし、いざ変えようとすると不安と恐怖が襲ってくるのだ。

これだけ嫌な主治医なのに

「もっと嫌な医者になったらどうしよう」
「新しい医者にまた一から説明して自分の事をわかってもらえるのか?」

とか、
とにかく現状を変える事に途方もない負荷を感じてしまう。
【「何でもかんでも不安になる」うつ症状が殆ど治ってません】

それでも物理的に家族の送迎が難しかった為、妹に相談し、あとはパニックで自分で考える事ができなかったので全て任せてしまった。


思考力、決断力というものがほとんど無くなっていたので、病院を変わるための処理はすべて妹がやってくれた。

次の病院を何処にするかについては、“繋がっていた役所の相談員の人”(※)から紹介してもらった病院へ行くことになった。
(※)回想録①に書いた人

また僕が最も嫌だった当時の主治医への連絡・処理等も全てやってもらうことに。

そして、この病院にもう通わなくてイイとホッとしたのも束の間、今度は新しい病院(クリニック)への不安と恐怖がどんどん増していった。
【この時点でも僕はまだ「うつ脳状態」だったのでしょう】

新たな主治医との出会い

「新しいクリニックの初診予約は1ヶ月後に取れた」
と妹から伝えられる。

この一ヶ月の間も

「どんな医者だろうか?」
「高圧的でないだろか?」

とか色々と想像する毎日だった…そうこうするうちに、不安と恐怖の中その日は来た。

(もちろん一人でなど行くことはできなかったので、妹も同行してくれることになっていた)

このクリニックはソーシャルワーカー(精神保健福祉士)が常駐している珍しい所だった。

妹に付き添われ、先ずはそのワーカーさんとこれまでの経緯、病歴などの話を聞いてもらう。
静かな感じの方で終始冷静に僕の話を聴いてくれた。

決して冷たい感じでもなく嫌な感じは受けない…そして聴いた話をワーカーさんがまとめて医師に伝えたあと、いよいよドクターとの診察となった。


超一流大医学部出身と聞いていた。
「堅物だったら嫌だな」と思っていたが、普段着のような服装で、患者目線の腰の低いドクターだったので、少し安心する。

精神科医の例にもれず、決して感情移入して話してくる人ではなかったが、冷静かつある程度の共感も示してくれ、僕の話を聴いてくれた。患者はこの“共感”が嬉しいものだ。

そして
「僕に精神薬は必要ない、眠剤だけで十分だ」という意向を飲んでくれ、一旦眠剤のみの処方としてくれた。これは嬉しかった…。


そんなこんなで恐怖の初診は、納得して終えることができた。
「このドクターとなら何とかやっていけそうだ」

抗うつ薬を止める、やめない

次の受診は1ヶ月後となり、眠剤のみの処方で様子を見ることになる。

「もう抗うつ薬からおサラバできる」 

と思っていた。

しかし、そう上手くはいかなかった…

日が経つにつれ、恐怖と不安感がどんどん増していく。

この恐怖は「生きている、生きていく」ことへの恐怖だ。
何かに対する恐怖ではなく、ただ漠然とこの世界に対する恐怖なのである。

もう一分一秒がこの感覚にさいなまれる。(これはツライ) 思い出して、今これを書いている筆が止まってしまう程だ‥。

【この続きはもう少ししてから書きます。ちょっと休憩させてもらいます】

つづく

【数ヶ月ぶりの続きです。少しずつですが再開したいと思います。2022.8月】

完全に精神不安定になっているにも関わらず、そのことすら状況判断できない僕は

「もう一日、明日になったら状態は良くなる!」

と只々「薬をやめたい」ことから自分を追い詰めていった。

恐怖と不安に完全に支配され、この世界に生きているだけで怖い。

“この世が地獄になるばかりだった”

余りの恐怖にわんわん泣いてしまう(いい年をしたおっさんが…)

そこから逃れるため、
本来は夜に飲む睡眠薬を日中に何度か飲むと少し楽になったのでそれがクセになってしまった。
【後に知ったのですが、睡眠薬と抗不安薬というのはハッキリした線引は無く、睡眠効果のより高いものが睡眠薬として指定されているそうです。この時不安が和らいだのはそういうことだったのです。でも真似しないで下さいね】

1週間もするうちに僕がおかしくなって来ているのを聞きつけたのか、
妹が訪ねて来てくれた。

僕を見るなり、即
「直ぐ病院の予約をとろう!」と言った。
(急患で翌日クリニックの予約が取れる。)


そして受診…
苦しさのあまり抗うつ薬の再開を受け入れ、主治医から提案のあった薬を試していくことになる。

しかし最悪の状態は免れたものの中々薬が合わず、三度変えてやっと固定したのは4ヶ月後のことだった。
【失敗と言われるかも知れませんが、この時主治医が僕の意向を聴き入れ、一度抗うつ薬をやめた経験があったので、この後嫌々では無く、納得して服薬できたのだと思っています】
【そして焦ることなく主治医を信頼し、減薬を進め、その後断薬して現在一年二ヶ月です】

この4ヶ月間も未来に絶望し抑うつ感全開で生活していた。
抗うつ薬が効いてこないもどかしさが募る…


並行して、妹に勧められ以前繋がっていた役所の福祉相談員さんとの面談も再開していた。
回想録①で書いた相談員(Nさん)は異動となっていたので、新たに引き継いだ人との面談を妹が事前にその人と会って設定してくれていたのだ。
「イイ人と思うよ。もし嫌だったらやめればいいから」と勧めてくれた。

新しい人間関係にとても臆病になっていた僕は

「どんな人だろうか?」
「わかってもらえなかった嫌だな」

と不安でいっぱいだった。

そして、いよいよその新しい相談員さんに会うことになる…

光の方へ

緊張の当日、妹が役所までついて行ってくれた。

そして新しい相談員(Hさん)に引き合わせてもらう。そこからは僕の意向でHさんと二人で話すことに。。


話すとわかったのは、前任のNさんと同じで、安心して話せる人だということ。
僕の話をしっかり聴いてくれて指図的なことも一切言わなかった。

「生きる希望は全く無い」
「毎日が辛くて仕方ない」
といった話が中心だったように思う…

当時の自分はまだまだ精神不安定だったし、この面談にそれ程期待もしていなかったけど、取り敢えず月に2回、Hさんと面談(お話)することになった。
【僕は運が良かったのかも知れません。二人続けて良い相談員に当たったのですから。ただ当時の自分はまだまだ毎日生きるだけで辛く、希望なんてものも有りませんでしたので、義務的に面談に行っていました。それでも無意識に助けを求めていたのでしょうね】

自立支援医療制度

一方で、一向に良くなってこない症状につけ、医療費(診察・薬代)がかさむのが本当に苦痛だった。
精神不安定の中、働きもせず、将来も全く見通せずで、余計に考えてしまい大きなストレスになっていた。
そんな時、
Hさんから「自立支援医療制度の申請はしてますか?」と聞かれる。

何となくは知っていたが、書類等の面倒事は思考できなくなっていた。

僕「やってません」

Hさん「じゃあまず申請しましょう。やっておけば色々楽になるから。書き方等は全て私が教えますから」

と提案してくれた。

更に
「ツナグさん(僕)の世帯状況なら、医療費全額負担ゼロになると思います」

と言って下さったので、
思考できない頭だったけども、その作業を二人でしていく事になった。

本当に僕は言われた通りに書くだけ、提出窓口にも同行してくれ、“ほとんど自動的”と言って程、手続きはいつの間にか終わっていた。
【コレは本当に有り難かったです。確かこの翌々月位から医療費が全額無料になったのですから】
【うつ病で思考力・決断力・行動力が著しく低下している時に手を引いて下さった。医療費へのストレスが無くなったのは本当に大きかったですね】

更なるつながり

そして、また新たな人と出会うことになる。

前任のNさんからも少し聞いていたが、役所の別窓口になる、主に生活面のより具体的な相談に乗ってくれる窓口の方を、その話を聞いていたHさんが会えるようにセッティングしてくれたのだ。

人と会うことに少しは慣れてきていたが、やはり不安はあった。
最初はHさんが同行して引き合わせてくれることに…

そして、新たに繋がった相談員(Mさん)はこれまでの人とは少し違うタイプの人だった。

僕の話にも一緒になって怒ったり共感してくれる、感情表現豊かな人だった。
少し情熱的で疲れるかも?と思ったけど、僕を傷付けるような態度を取るような人ではないと分かったので、Hさんと並行してMさんとも面談していくことにした。


この時点で僕は家族以外で、主治医、相談員のHさん、Mさんにサポートしてもらう形になっていた。

(もちろん、それで直ぐに楽になった訳ではなく、生きるのが辛い毎日に変わりは無かったが、
このような「つながりを継続」することで、後に光が見え始めることになろうとは夢にも思わなかった)

そんな先の見えない毎日でも、とにかく腐らず無理せずで、なんとか生きていた。
【この時期、通院や面談以外はだいたい家で横になっていました。他はやれる範囲で散歩に出たりしていましたね】

そして、このような生活が4ヶ月を過ぎる頃、

不意に本当に不意にだった、、

今も忘れない、、
散歩をしている時に心が少し軽くなったのだ!

4度目の薬が合ってきたのか?
面談で人とのつながりを持てた事なのか?
生活習慣の改善・維持してきたことなのか?

何が功を奏したのかはわからないが、その時から世界が変わったようだった。
【生きるのが本当に楽になったんです。一般の方なら普通の感覚でしょう。でも長らく抑うつ感に支配されていた僕には本当に劇的な瞬間でした】
【上に書いた色んな要素が、僕の「うつ脳状態」から正常な脳の状態に回復させてくれたのでしょう】

その日を境に、僕の人生に「喜びの感情」「楽しいという感覚」が少しずつ蘇ってきた。

相談員さんとの面談でも、以前はネガティブな事ばかり吐露していたが、それも少なくなっていった。

”普通の感覚で生きる“

って、こんな感じだったのかと、いかにこの数年が異常だったのかを痛感していた。

そして、
数年ぶりにそんな穏やかとも言える日々が4ヶ月程続いたある日、相談員のMさんから驚く事を聞かされる。

「実は2ヶ月後に、他の役所に異動する事になったんです。」

…これはショックだった。
とても親身になって話してくれる人であり、信頼関係も出来ていたから…

そして更に、
「私が居なくなる前に、ツナグさん(僕)を次のステップへ繋げておきたいの」

「就労移行支援センターという所で、先日見学してきた所がツナグさんに合いそうだから、一度私と見学に行ってみない?」

と優しく促してくれた。

Mさんが居なくなるショックはあったし、そんな知らない場所に行くのも正直怖かった。。

でも
「信頼するMさんが言ってくれている事だし、嫌なら止めればいい」
と思い切って見学に行ってみることにした。
【こういう決断が出来たのは、自分の“うつ脳”はだいぶ回復してきていたのでしょうね】
【そして信頼するMさんからの提案だったのも、非常に大きかったと思います】

就労移行支援センターへ

内心、震えながら行った見学の当日(負担が少ない他の利用者が居ない時間帯に行く)

商業ビルのワンフロアにあり、センタースタッフの人が迎えてくれた。

利用に際しての手続きやセンター内でのプログラムの説明などを流暢に説明される。

でもその方はやり手営業マン風で、イイ人ではあるのだろうが自分とは温度差を感じてしまう…
ちょっと聞いてるのしんどいなぁと感じながら、センターを後にした。

帰り、同行してくれたMさんが、
「しんどくなかった?」
「ちょっとあの説明はなかったと思うわ!まだ弱ってる人に対して」
「私、後でセンターにちょっと伝えておくわ!センターのためにもなるし」
と、

僕は「いやっ…いいですよ(汗)」と…

Mさんらしい…こういう人だから僕も信頼できたのだろう。
【この後、Mさんは本当に苦言してくれたそうです(汗)】


その後日、実際に他の利用者がいる時間帯に体験にも行った。
すると先日の人は常駐の人ではなかった。

実際のレギュラーでいるスタッフの方達は皆ソフトな感じの人ばかりで、配慮された静かな環境の中、居心地もイイ場所だということが分かった。

その後、何度かの体験・見学を経て、正式にコチラに通所する事を決めた。

各種手続きも全て丁寧にて教えて頂き、いつの間にか完了した。

また、利用料については僕の前年所得等から計算される。
見学時に既に説明があったが、僕の場合は
0円、無料である。
【後ほど分かったのですが、この就労移行支援を使ってる人のほとんどが自己負担0円で利用しています。ご利用を検討される方は費用については安心していいと思います】

そして、まずは午前中のみの週2回から利用させてもらう事となった。。

そして…希望

就労移行支援センターに通い始めたあの日……


現在、あれから1年8ヶ月が来ようとしている。

今では元気になり、未来に希望を持ちつつ生きられるようになった。

就労移行支援を利用し始めた頃は、働く気も無く、ただ居場所として通っていた。
センターのスタッフさん達に暖かく支えられ、
多くの利用者仲間達から良い刺激を受け、
今ではやりたい事も見つかった。

相談員の人達とのつながりも継続している。
主治医とも話し合いながら、一度は失敗した抗うつ薬の減薬を進めて行き、今は断薬して一年以上になる。。

「僕は生き直すことができた」

そして、同じような苦しみを持つ仲間に生き直すキッカケになればと、
このホームページを作った。

更に、実際のオフラインでの活動も思い切って始めてみた。

もう二度とするまいと思った治療家・セラピストの活動です。。

沢山の人達に助けられ、刺激を受けての湧き上がる思いからでした。
微力であるかも知れませんが、人の助けになれればと、そしてやっぱり自分はこの仕事が好きだがらと分かったからです。

『人は人によってしか救われない』

コレはある災害ボランティアを長年やってきた方の言葉です。

〜1人で悩み苦しんでいる仲間へ〜
僕はアナタが良き人とつながることを祈ります

わかっています、これは途方もなく勇気のいること

でも
そのヒントは、このホームページに書いたつもりです。


僕も道半ばですが、生き直せた命

これからは思いきって生きていこうと思っています。


最後まで読んで下さり、本当にありがとうございました。

            2022.8.17 
                            ツナグ

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