②つながれない…ひきこもるということ

2021年03月12日 10:14

人生には光と闇がある


“ひきこもり”とは 厚労省の定義によると

「仕事や学校に行かず、かつ家族以外の人との交流をほとんどせず6ヶ月以上続けて自宅に引きこもっている状態」 

だそうだ。

う〜ん、そう言われればそうなんやが、
なんかこうひきこもりの本質的な部分が現れていないようで、、
なんだか歯がゆい気持ちになる。

更には
「単一の疾患や障害の概念ではなく様々な要因が背景になって生じます」

とある。

この補足を読むとフムフムと少しは納得できたように思う。
まあ難しいことは置いといて、僕自身の
「ひきこもり」について書いて行こう。



僕がひきこもりの状態になったのは大きく2期間に分かれる。

第1期については前ブログに書いた様に、うつ病で休職療養した後、そのまま社会復帰できなくなってしまい、ひきこもるようになった。

うつ病の療養期間も含めると3年以上、社会から離脱していたことになる。

心の病がキッカケとなったこの第一期は、期間としては短い方なので
「また働けるようにはなるだろう」
と心のどこかでは思っていた。

もちろん将来への不安と焦りはあったけれど、まだなんとか心に“ほのかな希望”を抱いて暮らせていたように思う。
《この時期の事はブログ「うつ…僕がなるなんて」に詳しく書いてます》

久しぶりの光


このブログで特に書いていくのは、第二期のひこもりについてである。

第一期から社会復帰したあと、もちろん色々あったけれど、それなりに充実した日々をおくっていた。

数年ぶりに仕事をし人と関わったり、同僚や友人と飲みに行く事も楽しく、

「またこんな生活ができる日が来るなんて」

と本当に安堵と共に、働ける事に感謝する毎日だった。


しかし月日が経つに連れ、そういった生活も徐々に当たり前の事となっていく。。

「そう、本当にひきこもっていた事も忘れたかのように………」

そして、それなりに現状に不満なんかも出てきたりしもしていた。慣れとはこういうことを言うのだろうか…

暗雲

そんな中、
社会復帰して2年半が来ようとする頃、
これもまた運命なのか勤めていた整骨院に経営的な問題が起こる。

院を閉める話まで持ち上がる程もめにもめた。
それはもう通常診療に差し障りが出るほどだった。
その数ヶ月で皆、精神的にどんどん疲弊していった…

その渦中でスタッフ数人とともに、僕も離職することになった。

働きやすい職場だったんで、この怒涛の展開が信じられず、
「この2年半の社会復帰は夢だったのか」

とさえ思ってしまうほど本当に急な展開で残念な出来事だった。


しかしこの頃の僕は、
「また別の職場を探そう」
とか
「再び自分で独立してやってみよう」
とかいう考えを持っていて、それほど深刻になっていなかった。

だから
「失業保険をもらいながらしばらく休んで、また考えよう」
と軽い気持ちで無職生活を始めた。


しかし保険の給付が終わる頃になっても、なぜか働く気が起こらない…
流石にこれではいけないと焦り出した。
そして意を決してネットの求人から面接を受け、採用してもらうことになった。

しかしである、、

もう出勤日も決まっていた。その職場の雰囲気も悪くなく、経営者の人もとても感じのイイ方だった。にもかかわらずにである!

採用後に家に帰ったら 「もうダメ」 

状態だった。

就職するという事に、もう不安で不安で嫌でしかたなくなり、心の制御が全く効かずパニック状態になってしまう。

本当にもうどうしようも無くなってしまい、結局2日後、先方に連絡を入れ採用の辞退を申し入れた。。。


相手の方はこの非常識な電話にも穏やかに対応して下さった。
今これを書いていても、申し訳ない気持ちが出てくる。
【あの時はご迷惑をおかけして本当にすいませんでした】

そして、それが契機となり僕の第2期の“ひきこもり”が始まることとなる。


何か「言いようのない力」 によって就職する事を止めてしまった。
【すでにまたうつ病になっていたのか?はたまた、避けようのない“自分の運命”だったのかは今持ってよく分かりません】

それからは、
とにかくもう“働かないリミッター”が振り切れてしまい、なにかの糸が切れた感じがして

「とにかくもう無理して働かない」

と開き直ってしまった。
【これは自分が実家暮らしで当面経済的にも困らなかったのでできたのだろうと思います】



2度目のひきこもり生活


僕の場合、ひきこもり生活は完全に家から出ない期間もあったが、
全体としては出られていた期間のほうが多かった。

出られる時はとにかく“図書館”によく行っていた。

「図書館に平日に行くと結構おちつく」

なぜかと言うと、僕と同じような働いていないと思われる人達も少なからず見かけるからだ。

ちょっと仲間に出会った感じがして気が楽になる。
【今思うと僕はまだ外に出られる期間があったんですが、何年も何十年も家から出ていない人はどんな心持ちなんだろうかと時より考えてしまいます】

図書館で出会う仲間達と決して話すことはなかったが、お馴染みの顔を見るとなんだか仲間意識が芽生え少しホッとできた。
【中央図書館だったので、とても広く沢山の人が来ていました】

しかし、心では空虚感と漠然とした不安、焦りがゆらめいていて、地に足がつかず、

「もう人生投げやり」になっていたのだ。


ほとんど家に1日居るか、図書館に居るかという生活が続いた。
【本当に図書館にはお世話になりました。何百回と通い、ここがなければどうやり過ごしたか分かりません】

ただこの間、
図書館で心理学や仏教、スピリチュアルについての本をやたらと読みあさり、
手帳にまとめたりということをなぜだかやっていた。
【自然と湧き出る衝動のままにやっていたんですが、それが今このホームページ作りなどに生かされているのだから、何か見えない力を感じてしまいます】


でも一方では同居していた両親と段々と会話も少なくなっていき、ギクシャクすることが増えていった。

その当時、会話らしい事をするのは定期的に訪ねてくれる妹だけ…
気がつけば僕はコミュニケーションというものをほとんどしなくなっていた。

どんどん世の中から孤立していき心は寂しくなっていく。


しかし、そこに追い討ちをかけるかけるように、自宅周辺の環境が激変する。

家の両向かえで数回に渡る建て壊し工事が繰り返し行われた。コインパーキングになったり、マンションギャラリーになったり、挙げ句のはてに最後はコンビニができてしまう。

そして、その上これはもうトドメで、
近隣で大規模な大型マンション郡の建設工事が続けざまに始まる事となる。。



再び闇へ

近所にあった工場地帯を潰して、そこにマンション郡を建設する計画となり、結局この工事は解体〜完成まで4年ほどかかった。

“ひきこもり”にとって家が、自室が、唯一の居場所であり、最後の砦である。

こもってる人にはわかってもらえると思うが、
自宅の環境がこのような連続した工事によって無茶苦茶にされたのだ。

それまで比較的穏やかだった周辺の環境がウソのように変わってしまい、
ほとんど毎日繰り返される騒音と揺れに何年も苦しめられる事になる。

ただでさえしんどかったひきこもり生活が、この工事のせいで、僕をさらなる“狂気”へといざなう事になる…

この環境下で、僕の精神はよりアンバランスになっていき、両親ともさらに不仲になっていった。


当時すでに社会からほとんど離脱していた僕は、妹から
「役所の福祉相談の人が良い人だからあって欲しい」 とよく懇願されていた。

【妹からすると、明らかに当時の僕は精神不安定になっているにも関わらず、
頑なに
「俺は病気やない!」
「カウンセリングなんて無駄!」
「金も出したくない!」
「医者もいらん!」

と言い続けていました。

そんな僕を見て「もう家族だけでは限界」
と思い、なんとかしようと必死だったのだと思います】

ずっと拒んでいたけど、妹には頭が上がらない僕はしぶしぶ会うことを約束した…


相談員に会うのは本当に死ぬほど嫌で恐かったし、
「役所の人間なんて、どうせ事務的な対応しかしないやろ、余計傷つくわ!お前らに何ができる」
くらいにしか考えていなかった。

でも実際あったその人はイメージと違っていて、指図的な事は一切言わず、僕の話を親身になって聴いてくれた。
【久しぶり家族以外の人とまともに話したんですが、なんだか自然に話せたんです】

そして、
この“つながり”が後の「僕の命綱」となるのだが、その時の自分にはわからなかった。


それでもその後、最終的には

「生きていたって何もいい事はない、状況はどんどん悪くなる一方だ」

と絶望感に満たされるようになって行った。
【今思えば長期に渡るストレスで、完全にうつ状態(※)になっていたと思います】

そして“親への憎しみ”とプラスして、もう生きるのが嫌になっていた僕は、

「自殺するしかない」
(それが楽になれる唯一の方法)

と思うようになっていった。

そして実際に実行していくのだが…


それが家族や役所、病院を巻き込む事件となっていく。
しかし、図らずもこの事件が苦しいひきこもり生活に、一応のピリオドを打つことに繋がっていくことになる。

本当に一歩間違えたら死んでいた…
僕は運が良かったのだ…

「時として運命とは、過酷な方法で救いの手を差し伸べるのだろうか?」


《ブログ③「自殺と入院そして…希望」へ続く》

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